2017年3月25日土曜日

セリ取引の乱高下に泣く(昭和30年代後半)

農産物流通の昭和後半史と私-①脱サラへの道


今後の予定
日本のラルフネーダー竹内直氏と出会う
アメリカの流通視察で得たもの
青果店とのお付合いとミニFCの実践
VCのミニ・スーパーと共に10年
大規模SMとコンビニの隆盛時代に

1.農産物流通問題に引かれ脱サラ
 私がJA系の社法人「家の光協会」編集部記者を辞めたのは昭和40年、29才の時である。雑誌「家の光」はこの時、月180万部と日本一の発行部数を誇った。農村エリート向けの「地上」も発行していた。家の光協会勤務はわずか6年で、うち3年が家の光編集部、2年が地上編集部、残り1年は両者兼務であった。いずれにしても「家の光」が最ピークの年に、農産物流通コンサルタントの肩書で独立した。

 編集部の最後2年間に、1年目は「畑から台所」(昭和38年度)、2年目は「流通パトロール」(39年度)と農産物流通の連載記事を担当した。自由にテーマを選び24回連載をしたことになる。野菜を中心に農産物の暴騰、暴落がくり返され、農業者だけでなく、都会の消費者もまた泣かされる日々が続き、農産物の流通がクローズアップされていた。だからこそ連載記事を書き、挙句の果て「流通かぶれ」になり独立してしまった。

 当時の農産物流通の状況を知る手がかりが残っている・・・昭和41年6月8日の51回国会・農林水産委員会の討論内容である。

 児玉(末男)委員 「行政管理庁が5月27日に出した生鮮食料品の生産および流通に関する行政監察の結果によると、昭和35年から40年にかけて、消費者物価の値上がりについては、特に生鮮食料品が激しく、中でも野菜は97%の値上がりを示している」。

「一般の消費者物価は昭和35年に比し40年は35%の値上がり、うち生鮮品は平均56%値上がり、そして野菜は約倍(97%)の値上がり」という数字あげ、輸送費中心の質問をしている。

 小林(誠)政府委員 「野菜の小売価格は5年間で96%の値上がりですが、卸価格も95%ほど値上がり。農家の手取りと言える庭先価格も昭和39年までに約90%アップ」と説明。また値上がりの原因として、「以前と違う、単価の高い端境期の出荷が増えた」「野菜は非常に人手を要するが、都市への移動で人手不足」「流通段階でも非常に人手がかかる」と説明。また「10アール当たりの投下労働時間はアメリカに比し、露地栽培でだいたい2倍、施設栽培だと3倍、4倍」と指摘。

児玉(末男)委員 「中部管区行政監察局の追跡調査についての新聞報道では、(野菜?)小売価格を100%とすると、生産者手取りは22.6%、小売マージンが32.7%(時に66.2%?)。そして、それから中間マージンが全体が77.4%になっている。生産者価格と小売価格との格差が2~5倍にもなる」と指摘。(この数値はどこかで、メモの間違いがあると思うが、小売マージンの平均32.7%(ロスを見込んだ数字)の方は、現在時点でも通じる妥当なもの)。

2.連動していた野菜と所得の上昇
  当時、暴騰・暴落の代表格が野菜であったことは、今も変わらないように思うが、その価額が5年で1.97倍であったのは、現在と比べ「相当ひどいもの」である。総務庁「家計費調査」によれば、オール野菜の平均単価は平成21年を1とした場合、丸5年後の26年は1.10倍(38.54/35.02円-100g当たり)である。現在も上昇傾向にあるものの、当時に比べれば1/10の上昇幅に過ぎない。

当時、すでに「高度成長」の言葉が使われていたものの、ほんの入口で大卒の私の初任給は昭和34年当時12,000円(国家公務員6級職10,500円)、辞めた40年で2,5000円程度と記憶している。5年換算にすれば野菜の2倍と同レベル。野菜の上昇は「所得の上昇に連動していた」(さらには生産者の手取り増にも)ということになる。逆に他の農産物の価格はサラリーマンの所得向上に追いついていなかったとも言える。

上記、委員会でも暴騰・暴落がくり返される原因について、「生鮮品は腐りやすく、産地や市場に貯蔵機能がないまま市場販売すれば乱高下を産む」「産地がバラバラに生産・出荷していて、出荷量の全体が見えない。このため出荷量が消費量とバランスせず乱高下が起きる」との指摘がされている。これを是正するため、昭和41年に「野菜生産出荷安定法」が施行され、品目別の指定産地が決められ、「指定産地は指定消費地に生産量の1/2を出荷することにより、生産補給交付金を受けることができる」ようになった。

3.セリ取引へのメスはまだだった
 ところで当時の問題点の一つは乱高下の激しさにあった。消費者は高騰に、生産者は低落に泣かされ、そのたびに新聞に大きく報道された。当時の正確な数字がないが、中央卸売市場の取引の90%以上がセリ取引であったはず。競って商品を得ようとする場合、入荷量が20%少なければ、1.5倍の値がついてもおかしくない。逆に入荷量が20%余り気味なら、競争する必要はなくセリは成立しにくく、半値に下落しても不思議でない。だがこの時の農林水産委員会では「セリが乱高下を助長するもの」といった、セリ取引中心の市場体質について触れられておらず、ここに問題が残されていた。

 そして、どちらかと言えば、「中間流通コストが高いが、どうするか」の視点が中心だった。つまり包装手段、輸送手段、産地や消費地の貯蔵施設、流通に関わる人の人件費高騰といった点だ。このため輸送については41年の委員会では、鉄道輸送が中心的に議論されたが、トッラク輸送にまだ言及されていない。貨車に乗せ、貨物駅でトラックに乗せ換えて市場に運ぶ。このため時間も手間もかかり、鮮度も低下。迅速な市場相場への対応も困難・・・という不合理性にもセリ取引同様に、気付いていなかったように思う。また、中間流通のコストカットや高鮮度確保のための「産地直取引」という概念についても、まったく言及されていなかった。

鉄道輸送中心の議論は、当時まだ高速道路が全く開通していなかったことと関係する。高速道路が確立すれば畑から市場への直送体制ができる。昭和31年「ワトキンス」という調査団が来て、「工業国でありながら、日本は道路網の完備をまったく無視している」とし、高速道路公団が同31年に発足、実際に初の高速である名神高速道路(75km)が開通したのが昭和38年である。

4.興味は都市のスーパーや消費動向
   私は消費地の東京神田の生まれながら、農工大学農学部卒である。生産から消費を同時に体験できる立場にあった。このため「暴騰・暴落に泣く生産者と消費者」の現実に、興味を持って当然である。2つの連載を通じ、群馬県のキャベツの大産地「嬬恋村」や、当時すで6次産業化を達成していたポンジュースの愛媛青果連、北海道の中札内農協、静岡の庵原農協などを訪ねた。生鮮品の場合、加工というクッションがないと、全量出荷し価格の乱高下を招くと考えたからだ。また食肉については、相対取引の新潟県内の枝肉センターを訪ねた。セリ万能時代に新風を吹き込むと見たからである。

だが興味は都市部の動きだった。当時すでにダイエー、ヨーカドー、ジャスコ、ユニーなどのビッグ・ストアのチェーンが全国展開し、関東では西友ストア、東急、京王、小田急、東武など電鉄系のスーパーが多店舗展開。私は農業記者の立場で、東急ストア本部や「いなげや」、当時あった「しずおかや」、高級スーパーの青山の「紀ノ国屋」、対面販売だが、強力な生鮮の販売力を誇る四谷3丁目の「丸正本店」などの本部を訪ね、主に青果の担当者に会い、仕入れや販売の実態を農家の人に知らしめるために報道した。消費者について理解を深めるため、消費科学連合会の三巻秋子氏との面談記事も書いた。

当時の消費実態はどうか。独立時の昭和40年4月に名刺代わりに「農業革命への提言」なる小冊子を配った。冊子では、「先進国では澱粉系(麦、米等)、蛋白系(肉、牛乳。乳製品、鶏卵等)、ビタミン系(野菜、果物)の食品が1対1対1の割合で消費されいるが、日本は澱粉系52.0%、蛋白系19.5%、ビタミン系17.5%、その他11.0%で3対1対1に近い。例えば蛋白系の肉の年間消費量は1人9kg(昭和39年)に対し、西ドイツは約7倍の61kg、イギリス約8.5倍の90Kg、鶏卵も2倍近い水準。ビタミン系の野菜は日本の場合、1人年97kgの消費で先進のトップグルーに近く、アメリカは96kgだった。果物は30kgでアメリカ、西ドイツ、フランス、イギリスの約2/3」としている。ただし野菜はダイコン、ハクサイなどの澱粉系が多く、ビタミン系の消費急増もあって、価格が急騰したように見られる。鶏卵はこの時期すでに大規模化が進み、「物価の優等生」と言われ続けてきた。

   小冊子では、「蛋白・ビタミン農政に転換することが、物価問題の解決につながる。それには米麦中心の米価審議会を止め、農業総合構造・物価審議会に換え、需給バランスを政治的に作り直すべきだ」と提言している。大海に投げた一石に過ぎず効力なし。米麦中心農政は今日まで続いてきたといえる。

   時代は飛んで、最近(平成29年3月28日)になり、JA全農は事業計画の基礎になる改革方針を発表した。これによれば、農産物を小売りに直接販売する方式について、
①米の直売比率は全量の4割だが、これを平成36年までに9割にする。
②野菜や果物は現在直売比率3割を36年に5割強にする。
・・・生協の共同購入が進んだり、農産物直売所が登場したりで、消費地ー産地直結の取引も、上記のように米で4割、野菜・果物で3割と伸びてきたのだが、昭和40年時点では、これらはゼロに近かったのである。